とある東大生の脳内をのぞく

こういうこと考えてる東大生もいるんだなあ

センターと東大2次試験の得点開示

 

 

ここに書く記事は、普段僕が「これ考えるの面白いな」と思ったことをことばにしてできているのですが、どうも鼻につくような文章しか書けないんですよね。

 

まあ、それだけ書きたいことが、熱意があるときにしか記事を出していないというのが事実なんですが…

 

なにが言いたいかというと、僕は一応、浪人してブログを始め、そのブログでみなさまにお見知り置きいただいたというのがあるので

 

ちょうど東京大学第2次学力試験の得点開示が届いたことですし

 

ここでひとつ、浪人生っぽい記事をはてなブログでも書いてみようかなと思ったのであります。

 

 

 

さて、本題に入ります。

 

東大の2次試験、ついでにセンター試験の得点開示のハガキが届きました。

 

比較のために、昨年の結果も載せておきます。

 

 

まずは、昨年の結果から。どうぞ↓

 

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そしてこちら↓が今年の得点です。

 

 

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総合で昨年より35点上がりました。 

 

しかしこれでも合格者平均には届いていないんですね。

 

 

・合格者最低点は昨年比+15点

・合格者平均点は昨年比+11.5点

 

で、最低点の伸び幅に比べて平均点の伸び幅が小さいですから、僕がこちらの記事(浪人時代のブログ)で言った通り、340~345あたりの中間層の人数が増え、上から1128人選んだら、いつもより人が多くて一番下の人の点数が高くなった、という感じだと思います。

 

高得点帯の人数が増えれば平均点も大きく伸びるはずですからね。

 

現役が強いとは前々から分析していましたが、上が高いのではなく底が高いという受験者層だったのでしょう。

 

 

 

そしてここからは入試の分析から移って、僕の点数に着目しますが、昨年比

 

国語+0 数学+29 英語+10 物理-4 化学+1

 

です。物理を除き、僕の浪人生活一年間の勉強時間の割合を上手く表していると思います。東京大学の入試は本当にすごい。

 

物理に関してはけっこう勉強していましたが、明らかに問題が難しくなり、たぶん得点調整もそこまでされていないので、点数が低くなりました。

 

 

ひとつ言えることは「数学英語ができなきゃキツい」ということです。

 

昨年より30点上がっている数学の話はともかくとして、英語に関しては、たぶん僕の点数はそこまで低くないほうだと思います。ここで仮に英語が65点近くになってしまうと、合格者最低点を割ります。

 

まあ僕の場合は国語物理化学がそこまでいい点数じゃないのでなんとも言えませんが、とにかく英語と数学は得点源になる可能性が高いです。

 

 

 

ちなみにセンター試験についてですが、満点だと思ってた数学IIBがまさかの97点で悔しいのと、1年浪人したのに点数が落ちててワロタって感じです。

 

 

よく考えれば当然なんですけどね。

 

なぜなら僕らは一年間、2次試験のために勉強してきたのであって、センター試験対策なんか直前の1ヶ月くらいしかやってないからです。

 

センターで点は取れないけど、2次試験できちんと点を取るほうが、筋道的には正しいです。

 

 

 

 

 

 

 

そこまで文章量は多くないですが、とりあえず浪人生活が始まっている人が読んで参考になれば幸いです。

 

もう自分の浪人生活での居場所には慣れたでしょうか?予備校通いの人は、友達はできましたか?

 

友達ができなければ、勇気を持って近くの席の人に話しかけてみてください。

 

特に駿台は座席が週1で変わりますから、いろんな人と仲良くなれます。

 

仲良くなっとくと大学入ってからも楽しいですし、なにより浪人生活に少しだけ色が出ます。

 

 

「友達なんか作らずに、ひとりで勉強に向き合うんだ!」

 

なんて言って孤独になろうとしちゃう人もいますが

 

正直言って、友達付き合いをしても成績が伸びるような勉強法じゃないと、時間かけても合格は遠いですよ。

 

 

なによりそんなの人間的に良くないです。友達はぜひ作ってください。

 

 

 

1年ってけっこう長いです。長い1年ですから、それだけやれることはいっぱいあります。

 

どうか受験勉強という狭い世界にとどまらずに、いろんなことにチャレンジしてください!これから受験をむかえるすべてのみなさまの大きな飛躍を期待しています!

 

 

 

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時の流れ

 

僕は、3月の初めに1つ歳をとる。

 

浪人時代、それを友達に伝えると、99.9%の確率で次のように反応された。

 

 

 

「えーっもう入試終わってるじゃん」

 

 

 

そのときは目の前の勉強をこなして実力をつけることに精一杯だったから、入試のことなんか、遠い未来のように感じていた(嫌なことは長く感じるという主張と繋がる)。

 

すなわち、その反応をされたそのときは、自分の19歳の誕生日が来るときなんてまだまだ先のことだと感じていた。

 

 

しかしいま、僕は無事に19歳になって志望校に合格し、あれだけ憧れた大学生活を送っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれだけ憧れた、と書いたが、憧れとその現実は必ずしも一致しない。

 

憧れとちがうと言っても、嫌なことがあるのは仕方ない。

 

大学を卒業するために求められることはただひとつ、学問を修めることである。

 

卒業するには、これから逃げることはできない。嫌なことがあるのは仕方ない。

 

 

 

ただ、避けられるはずである「嫌なこと」に直面しているとしたらどうだろう?

 

例えば、入ったサークルが思ったより面白くなかったが、できてしまった人間関係などもあってなかなか活動の頻度を落とせないでいる。

 

入学直後に作った友達が意外と自分に合わないが、最初からずっと一緒というのもあってなかなか距離を置けずにいる。

 

新しい出会い、新しい機会がたくさんある大学生活では、こういう「心の違和感」を持たざるを得ない状況に直面することが往々にしてある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が1年大人に近づく日が遠い未来のように感じたときがあったはずなのに、僕は今こうして19歳の生活を送っている。

 

 

まだまだ先だと思っていることも絶対にいつか来てしまうし、時は確実に流れ、僕らはそれに逆らえず老いてしまう。

 

 

若い今は、自分が将来ヨボヨボになって、場合によっては車イスを使ったり病院のベッドに寝たきりになったり、なんて考えられもしないが

 

入試が終わって僕がひとつ歳をとったように、老いもいずれやってくる。

 

 

僕らに与えられた時間はたしかに多いが、それは確実に限られている。

 

そう考えると、やりたいことは後回しにしないほうがいい、と最近強く思う。

 

 

自分が直面している「嫌なこと」がもし避けられるものなのであれば、積極的に自分の状況を変えに行ってほしい。

 

同じ場所で我慢してがんばる必要はない。この広い社会で、僕らの居場所は、1ヶ所に限られたものでは決してない。

 

今の場所が嫌でその抜け道があるのなら、勇気を出して自分(の環境)を変えに行こう。

 

僕らはいずれ老いる。だとしたら、今いる嫌な場所を抜け、元気のある若いうちは自分が安らげる環境に身をおいて、やりたいことを思う存分やろう。

 

自分(の環境)を変えるのには勇気がいる。

 

でも、変えた先に自分の喜びが待っているのなら

 

 

もう、踏み出すときはすぐそこにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

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5-1月病

 

 

五月病」は、割ときいたことがある単語である。

 

Wikipediaの「五月病」のページの冒頭には

 

 

五月病(ごがつびょう)とは、新入社員や大学の新入生や社会人などに見られる、新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状の総称である。

 

 

 

と記載されている。

 

 

ところで「四月病」という言葉もあるらしい(知名度はかなり低い)。

 

これを調べてみると、面倒なことに、サイトによって

・新生活が始まってやる気が上がって急に意識高い系になっちゃうこと

・新生活に適応する上でストレスがたまってしまって出る症状

の2つの記述に分かれている。

 

勘のいい、または東大理1を目指す浪人生の物語から読んでくださっている読者の皆様は薄々お気づきかもしれないが、当然僕の書きたいことは後者である。

 

しかし、1つに定まらない(あまり有名な言葉ではないからであろうが)概念を含む言葉を使うのは混乱を起こしかねないので、五月病という言葉をベースに、四月に僕が経験しているという状況を当てはめて、ここに「5-1月病」を定義する。

(決して「ごねんいちくみつきびょう」と読んだり、演算を実行したりしてはいけない)

 

<><><><><><><><><><><><><><><><><><><><><><><><><><>

 

 

単刀直入に言えば、土地も人間関係も広い「大学」という場所で生活を始め、今までのような狭く深い友好関係がなくなり、それに寂しさを感じているということである。

 

浪人ブログから読んでくださっている人から「いやお前メンタル弱すぎ寂しがりやじゃねーか」と罵倒されることは覚悟して書いているのだが

 

本当に心を許せる拠り所がなくなったor減ってしまったのは、正直寂しい。

 

駿台お茶の水校から一緒に東大へ進学した友達は20人近くいるが、大学で同じクラスの人はおらず、みなそれぞれの世界に飛び込んで、なぜか、なぜかひとり取り残されてしまった気がする。

 

そう、なぜか、である。

 

というのも、大学のクラスで孤立しているわけではないのだ。

 

オリ合宿で深夜までゲームを一緒にして仲良くなった友達が15人近くいて、授業も一緒に受け、五月祭の出し物の会議にも積極的に参加している。

 

しかし、夜になり、授業が終わって帰路につくと、今まで楽しく過ごしていた仲間たちがふと恋しくなる。

 

 

 

 

ここで気持ちを率直に書き残しただけでは、ただのメンヘラブロガーの戯言になってしまう。

 

なぜ僕はこんなメンヘラになってしまっているのか、僕なりに考えついた理由をいくつか述べる。

 

 

 

 

①新しい環境に慣れきっていない

 

先ほど書いたので特に説明はしない。

 

 

 

②大学の友だちと知り合ってまだ日にちが浅い

 

それはそうである。

 

プレオリの日に顔合わせをし一緒にオリ合宿をしたとはいえ、まだ知り合って2週間も経っていない。

 

信頼できる心の拠り所がいないのも、当然の話である。時間が解決してくれるだろう。

 

問題は、ここからである。

 

 

 

③睡眠時間が足りていない

④お腹が空いている

⑤最近運動をしていない

⑥授業で疲れる

 

「は?」と思った人がほとんどだろう。しかしこれはおそらく事実である。

 

まず先ほど「夜になって、帰路につくと」寂しくなると書いたことを思い出してほしい。

 

夜、授業が終わって帰るとき、まさにそのときは疲れており、夕ご飯前でお腹が空いている。疲れと空腹は、基本的にお豆腐メンタルへの最短経路である。

 

 

そして睡眠、運動不足。

 

それについては、Testosterone氏著作の「筋トレが最強のソリューションである」からの次の引用を参考にしてほしい。

 

 

「あれ?俺 / 私、メンがヘラってる?」って思ったら試すべき5つの行動

①8時間睡眠の確保

②週3日の運動(筋トレが至高)

③朝起きたら太陽の光を10分は浴びる

④3食しっかり食べる

⑤だれでもいいので悩みを話す(僕はよくダンベルに話しかけてる)

効果はすべて科学的に証明されています。

 

僕がダンベルに話しかけるかはさておき、この5つはかなり有効性のある主張であると思う。

 

科学的にどうなの?とかは、テストステロンとかセロトニンとかの話を持ち出さなければならず長くなるので割愛するが、たしかに僕は最近6時間近い睡眠時間で大学に通っていたし、浪人時代は朝の日課であった筋トレもサボってほぼしていない。

 

早速今日から改めようかな、と思う。この筋トレ本は読んでてかなりタメになることがたくさん書いてあるので、お時間があればぜひお手にとってほしい。

 

 

 

世界をいくつも持っておく。

仕事の世界、家族や友人との世界、色恋の世界。

延長線上で考えるのではなく、全部切り離して考える。

どれか順調にいっていれば他がダメでも耐えられるし、何より一点集中は気張り過ぎちゃってよくない。気楽にゲームソフトを数本同時進行しちゃう感じぐらいでちょうどいい。

 

友人たちとの世界に一点集中しすぎてメンがヘラっているのだから、他の世界に情熱を注ぎ、その間に自然と友人たちとの世界も上手く行かせるのが得策なのだろうか。

 

見つめる鍋は煮えない。

 

 

 

 

 

 

ちなみに文中の<><><><><>...より前の場所は帰りの電車の中で(病んでるとき)、後ろはご飯を食べて風呂に入ったあとにゆっくりしながら書いた文です。同じ記事なのに、僕の中では熱量が全然ちがいます(もちろん前者が熱い)。読者の皆様にも、一目瞭然でしたでしょうか…

 

 

 

 

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"若者言葉"としての「ヤバい」

 

 

駒場での授業を終えたあと、渋谷駅で京王井の頭線を降りたとき

 

「山手線とか本当にヤバいよね」

 

という言葉を耳にした。

 

折り返しの電車に乗るために僕とすれ違ったJKから発せられたものである。

 

 

 

この言葉だけ聞いて「いやなにがどうヤバいんだろう」と思ってしまった。

 

お前、知らない人の言葉にも食らいつくって好奇心旺盛だな、ということを書きたいのではない。

 

この発言から、我々が使う「ヤバい」という言葉の本質が垣間見える。

 

 

 

 

 

 

ここで、ヤバいという言葉の意味を調べてみると、Weblio辞書には次のように記載されている。

 

 

 [「やば」の形容詞化。もと、盗人・香具師(やし)などの隠語 ]

身に危険が迫るさま。あぶない。「ー・いぞ、逃げろ」

不都合が予想される。「この成績ではー・いな」

若者言葉で、すごい。自身の心情が、ひどく揺さぶられている様子についていう。「この曲、ー・いよ。」

  

 

ちょっと引っかかる "若者言葉" という単語は後に回しておいて「ヤバい」について考察しようと思う。

 

 

 

そもそもヤバいは盗人や香具師(テキ屋のこと)の隠語である「やば」という単語が形容詞化したものだと書いてある。

 

 

ヤバいは悪いことに使うのが正しい …☆

 

という意見はよく耳にするが、たしかに盗人を表す言葉が語源になっているのだから、悪いことに使うのが本来の意味である(テキ屋さんは別に悪い人じゃないと思うので触れません)ことは簡単に分かるだろう。

 

しかし僕も含め(僕の用途は狭いです。後ほど)、若者の大半は「ヤバい」を、次のように必ずしも悪いとは言えない意味でも使う。

 

「ヤバーいこれかわいい〜」

 

 

悪いものに対してかわいいという言葉を使うのは、小悪魔系の女の子にやられたプライド高めの男が「俺もこんなあざとい手に引っかかる凡人だったのか」と悔しがり自分の意志に反しながら相手のことをデレデレに褒めるときくらいで極めて限定されていてほぼ考えなくてよいから

 

上の「ヤバい」は良い意味で使われていると考えることができる。

 

 

 

そもそものヤバいの本質は悪いものを形容する言葉であるが、このように悪くないものにも「ヤバい」という語が使われるようになったいま「ヤバい」という語の本質はどうなってしまったのか。

 

 

僕が考えるにそれは「程度のはなはだしさを表す」である。

 

 

 

程度のはなはだしさ…という言い方をするとどうしても古文単語が頭に浮かんでしまうのが受験勉強病の患者(僕です)であるが

 

古文単語には、程度のはなはだしさを表す単語がいくつかある。

 

その中で、現代語の「ヤバい」にちょっと似たような単語があって、それは「いみじ」である。

 

 

Weblio辞書によれば「いみじ」の意味は

 

①はなはだしい。並々でない。

②よい。すばらしい。

③ひどい。恐ろしい。

 

  

である。

 

良いも悪いも表せる、まさに「ヤバい」のような単語で

 

実は僕が先ほど気づいた「ヤバい」の本質は、冒頭の山手線がヤバい話と、この単語の知識を結びつけて得たものである。

(「ヤバい」のように、悪い意味→良い意味 という順かは不明)

 

 

 

このような本質の変遷があるから、冒頭の「山手線とか本当にヤバいよね」という言葉を一度きいただけでは、何がヤバいのかよく分からないのだ。

 

おそらく、山手線は混み具合がヤバい(悪)というのが意図されている可能性が高いが、もしかしたら彼女らが鉄分多めのJKで、山手線E235の車両(電子レンジ)の姿に興奮して「ヤバい」(良)と言ってるのかもしれない。

 

 

どちらにせよ「ヤバい」がただ単に程度のはなはだしさを表す単語になったから、あの言葉の本当の意味をすぐに汲み取れなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

さて次は、後回しにしていた "若者言葉" について意見を述べさせてもらう。

 

 

そもそも "若者言葉" ってなんなのだろうか。

 

いや意味は分かる。若者しか使わない言葉である。

 

でもそれってなんなのだろうか。どう考えても日本語に精通しててお偉い(笑)学者様が僕ら若者を若干軽蔑して申し上げ始めたにちがいない(わいあーる調べ)。

 

若者しか使わない言葉の出現は、どの言語においても、言葉の使い方の変遷と直接結びついている非常に言語学的に興味深い事例である。

 

そんな事例に大人(笑)は「我々大人が慣れてない言葉を使うんじゃないよ!」と言わんばかりに "若者言葉" といういかにもアホ丸出しな名前を与えてしまった。

 

上に☆とつけさせてもらった主張も、だいたいの場合は僕らより年齢が上の人や、そういう人たちの言うことをどこかの鳥のように何も考えず丸のみにしている人たちがだいたい言っている(わいあーる調べ)。

 

 

 

 

大元に戻れば、そもそも僕らがネイティブとして使う日本語に、正しいまたは間違った日本語なんてあるのだろうか?

 

通じれば全部正しいのではないか?

 

 

 

なぜならば、日本語を使うのは僕らだからである。

 

日本語を使い、紡いでいくのは、紛れもなく僕らである。

 

僕らが紡いでいく日本語を「辞書の意味」とか「文法」とかで自ら制限しているのは、バカバカしいことではないか。

 

僕らが使う日本語が「辞書の意味」になり、僕らの日本語の使い方が「文法」になるのであって

 

「辞書」や「文法書」で最初から僕らの日常の日本語の使い方を制限するのは、単純に順序が逆だと思う。

 

 

 

たしかに辞書は「大半のネイティブが使う日本語」を示す上で重要な役割を果たしており、ネイティブといえど知らないような日本語を参照したり、日本語を外国語として学習する人々の参考として使われたりする。

 

さらに、どの言語でも、かしこまった場面では文法が厳しくなる傾向があるから(これは「正しい」文法が避けられない共通認識になってしまったからに他ならないが)、そういうときのために文法書は活躍する。

 

 

しかし先程も言った通り、僕らの言葉が日本語になるのだから、辞書や文法書にこだわったり自分が聞きなれてない言葉に反発したりして「その言葉づかいは間違っている」と頭ごなしに否定するのは、それこそが間違っていると思う。

 

特に後者のようなことをしてる年上の人間を見ると「いや俺らが悪いって言うけど、裏を返せばお前が無知なんだぞ…」と言ってしまいたくなる(我慢してます)。

 

もちろん、日本語を初めて学ぶときからこんなことを言っていてはキリがないから、初修のときは「正しいと言われている日本語」を教え、マスターしたら自由にするという方が手っ取り早いだろうが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言語の話をするときは、民族的な帰属意識や文化的なちがいが出やすいから、慎重に書かざるを得ず、精神がすり減るのであるが

(だからこの記事には「日本語」という言葉がたくさん出てきますが「日本人」という言葉は出てきません)

 

それでも、以上のことは、考察してみるとけっこう面白いものである。

 

 

 

 

 

 

あっちなみに途中で出てきた僕の「ヤバい」の用途は

「スポーツや勉強や娯楽などで自分より圧倒的に卓越してる人を見て『あいつヤべえな』とつぶやくとき」

ですが、イキそうな女性が「はぁ〜ヤバい」とか言ってるのも、けっこう好きです(わいあーる調べ)。

 

 

 

 

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わいあーるの小さな美学

僕の、というか、けっこう多数の男が心の中に秘めている一種の美学のようなものがある。

 

それは

 

「自分に好きな人がいるとして、自分がその人のことを好きであることが他人にバレたら終わり」

 

というものである。主述関係が複雑かもしれないが、上手く伝わっているだろうか。

これを以下、稚拙な名前であるが「バレの美学」と呼ぶことにする。

 

要するに、自分の好きな人が他人にバレたらだいたいは上手くいかないということである。

 

これは男によく見られる美学であり、だいたい(筆者の経験からして)女は好きな人ができたら、少なくともいわゆる「親友」にはすぐに言っちゃいたくなる習性があるので、バレるバレないの話がそもそも存在しない。

 

 

 

さて、こういう美学が出来上がる理由はいくつか挙げられるだろうが

 

まず最初にして最大の理由は「他の人にバレたらだいたいイジられるから」だろう。

 

ここで「この理由って、他の人にバレたらイジられるようなキャラで、しかもイジられただけで恥ずかしくなってその後の行動が挙動不審になっちゃうような、女性慣れが少ない人にしか当てはまらなくね?」と思われる方もいらっしゃるだろうが

 

そもそもバレの美学は、そういうキャラでそういう慣れてない人にしか出来上がらない。

 

モテてる人は、周りがなんと言おうとも自分でどうにかするという自信があり、実際にその能力があることも多い(だからモテている)。

 

したがって、この美学を取り上げた時点で話はそういう人に限定されているのであり、よって理由が当てはまる範囲も、自ずと上の指摘通りになるのである。

 

 

 

普通はここで終わりであるが、なぜか僕の頭の中に浮かんでしまった要因が1つある。

 

その要因とは

 

「良いものは口に出してしまうと安っぽくなる気がするから、その良さは自分の中だけにとっておきたい」

 

というものである。これは実際に自分が感じている要因ではないかもしれない。

この先の文章で必死にその要因とバレの美学を結びつけようと説明しているが、どうしても理由づけが無茶にしか見えないので、くだらないと思ったら読み飛ばしてもらってもかまわない。

 

 

 

 

たとえば大学の近くでお昼を食べるとき、有名な美味しいお店は行き尽くしてしまったから、テキトーに歩いて見つけたガラガラのお店にふらっと入ってみたとしよう。

 

そこのお店の料理が信じられないくらいおいしかったことを考えてほしい。

「なんで今まで気づかなかったんだろう」という気持ちになり

 

そして何度か通ってもまだガラガラで、自然と店主にも愛着が湧いてきたころ、きっとこう思うはずである。

 

「このお店がみんなに知れ渡って、混んだりするのは嫌だ」

 

ときには「ガラガラの店内で自分にだけ優しくしてくれる店主さんが他の客にも接客するの、なんかな〜」とまで思う人も現れる。

 

 

これと同じ心理で、少し方向性はズレているが「自分が良いと思うものはあまり口に出したくない」という考えがあることに気づくことができる。

 

 

そもそもこの心理は、ある対象物に(物理的でなくとも)接触している時間が長くなったときに自然とわいてくる「独占欲」のようなものに基づいていると言える。

 

人があるものを好きになったとき、特に本能に近い部分では、そのものを自分だけのものにしたいという気持ちが生まれる。

 

いかにも本能的な「食事」と「恋」の二分野において、この独占欲は形を変えて「みんなに知れてほしくない」「好きな気持ちは自分だけにとっときたい」と現れるのかもしれない。

 

 

言語化とは、言語という既存の概念に目の前の対象を当てはめる作業だから、(言語化する)=(その対象のオリジナリティを失わせる)ということになる」

(この後に「だから恋人に私のどこが好き?ときかれても、具体的に答えるのではなく、うーんなんかよく分からないけど好き、と好きな点を明確にしない方がオリジナリティが保てる」と続くことが多い)

 

と僕は一度聞いたことがある。

 

人に言いたくないという気持ちは、このオリジナリティの喪失とも関わっている気がするが、あいにくそこについて考察している時間と気力が深夜1時近くの僕には残っていない。

 

 

 

 

まあ、正直自分で書いてて、バレの美学と独占欲を結びつけるのはあまりにも無茶だと思ってしまったので、なるだけ断定は避けた言葉づかいにしたが、もう気にしなくていいや。

 

 

 

てか、恋愛って理屈じゃなくて「愛は…気がつけばそこにあるもの」とMr.Childrenも言ってるわけだからさ、いちいち恋愛にこういう考察入れてるからモテなくなって、そういう美学が出来上がるんじゃないのって思ってしまった。オワタ。