とある東大生の脳内をのぞく

こういうこと考えてる東大生もいるんだなあ

何者にもなれない自分がいる

 

 

大学に入り、広い広い東京という都市に投げ出され、自分の方向性を見失いつつある。

 

アイデンティティの喪失である。

 

 

 

 

 

 

 

新たなコミュニティに属し、実に多様な人々の荒波に揉まれる中で、他人が持つ自分にはないものに憧れ、うらやましがり

 

自分にはないものを持つ他人と、それに対して何も持たない自分を比較しては自分を憂い、いまの自分の無力さを嘆く。

 

 

他人から抜きん出るものを持ち合わせられず、東京にいる大勢の人にのまれて「自分は何者にもなれていない」という感情に苛まれる。

 

 

 

 

もとい、自分の自分らしさを上手く発揮できていない自分がいるとも言える。

 

自由度が高かった男子校を卒業したことも影響しているのか、自分の言動が一般社会での今の状況に相応しいものなのかを考えすぎるあまり、自分の素直な発言を自己検閲してしまっている自分がいる。

 

直感的に出てきた言葉でなく、自分の理性というフィルターを通って、つまり2回3回と遠回りをして出てきた言葉をしゃべり、ありのままの自分がありのままに話をしている感覚が消えている。

 

だれにも分からないところで取り繕った自分が言葉を話しているという感覚が、自分らしさの喪失を招いている。

 

 

 

 

 

 

 

自分の自分らしさを見失い、他人に何者とも認知されていないと感じると、人間の根源的な承認欲求に基づいて、自分を無理に大きく見せる言動を取りたくなる。

 

少し見栄を張ってウソの経歴を言ってみたり、小さな出来事でさえも他人にひけらかすように話してみたり。

 

 

こうして根本の承認欲求に突き動かされても、頭のどこかで理性は働いていて「ここで自分語りをしても面白い会話にならない」「ウソなんかついて何になるんだ」と第三者視点から野次を飛ばしてくるマインドが存在し、その声にまた自分を必死に取り繕っている惨めな自分の姿を思い知らされる。

 

 

 

 

とは言ったものの、そこで「じゃあ自分はどんな人になりたいの?」と問われても、答えは出てこない。

 

他人から卓越した自分を理想としているのは確かだが、どんな点で卓越したいかが明確にならない。

 

 

 

 

 

どんな点かは分からない。そのためにどうすべきかも見えない。

 

 

とにかく、自分を自分たらしめる何か、アイデンティティがほしい

 

「一般の人」から抜け出し、自分が他人とは区別されて周囲に認められるものがほしい

 

会う人々がそれとして認知してくれる「何者か」になりたい

 

 

 

近頃、そんなことを思いながら生活を送っている。

 

 

 

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