とある東大生の脳内をのぞく

こういうこと考えてる東大生もいるんだなあ

出る杭は打たれる

 

 

諸事情により既に非公開にしてしまったが、このブログで一番最初に書いた記事のタイトルは「わいあーるの小さな美学」というものであった。

 

その記事に書いたものとは「似てるけどどこかちがう」ものではあるが、もうひとつ美学(というか好きなタイプ?)がある。それは

 

 

 

普段ボケっとやる気なさそうにしてる人が本気出したらめちゃくちゃ仕事できるのすごくかっこいい

 

 

というものである。

 

どこか中二病の臭いが漂う趣味ではあるが、そのような人に出会うたびに「ああこんな人になりたいな」と思っている。

 

 

 

 

 

 

最近では、たまたま用事があって降りた駅のコンビニの若い男性店員がこのような人間だった。

 

僕が入店してかろうじて「いらっしゃいませ」と発音してはいるのだが、声がボソボソすぎてそれが「エアロ・スミス」に聞こえなくもないというやる気のなさを見せつける。

 

そのときはお昼時で、僕が弁当を選ぶのに苦戦していると、どんどん客が店内に入ってきて、あっというまに3つのレジに長蛇の列ができた。

 

弁当を片手に適当に列に入ったのだが、どうも自分の列だけ回転が異常に早い。

 

 

見ると、レジ打ちの主はあのエアロ・スミスの男の人であった。

 

 

アラン・ドロン不在でした」とボソボソ声で言いながら(たぶん彼は「ありがとうございました」と言っていたのだと思う)死にそうな目でレジを打っているのだが、レジを打つスピードは稲妻と見紛うほど速く、電子レンジから弁当を出し入れする所作、商品を袋に詰め箸やスプーンなどを添える流れに少しの無駄もない。

 

 

こちらの記事にも書いたような「ギャップ萌え」というほどでもないが「この人すげえな…かっこいいな…」と思ってしまった。

 

 

 

 

 

話が大きく逸れたが、このボケっとしてる人が本気を出すと…という趣味を少し発展させると、次のようなよくある美学に話を広げることができる:

 

 

努力は人に見せるものではなく隠れてするものだ

 

 

詳しく説明すると、ボケっとしている人は努力を隠れた場所でしているから(天性の才能である場合もあるが)、普段ボケっとしていても本気を出せばハイスペックになるということである。

 

 

これは僕の中で最も大きな美学で、例えば体力をつけるためにランニングをするときは絶対に夜遅めの時間(21:30以降とか)に近くの運動公園に行くだとか、バイトの研修で上手くいかなかったところは営業終了後に人が少ないところで密かに練習するだとか、僕の日常生活の色んな部分の行動を決定する要素になっている。

 

 

というか、どちらかというと、隠れて努力をするのがかっこいいと思っているのではなく(その結果動きがよいという事実はかっこいいと思うが)、人前で努力をするのが恥ずかしいと思ってしまう。

 

 

その努力が失敗を伴わなくても(実際にランニングに失敗などはない)、人前で一生懸命なにかに打ち込んでいるとか、集中してがんばっているとか、そういう行動を見られることに対して恥ずかしいという感情を抱いてしまう。

 

 

しかしよく考えれば、そういった努力は決して悪いものではないし、人に見られてもいいもので、見てくれた人はむしろ「おつかれさま。えらいね、がんばって」などと応援してくれるだろう。

 

 

なぜ僕の中に、このような「意味不明な」美学ができあがってしまったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その答えが載っているツイートが先日僕のタイムラインに流れてきた。

 

 

 

 

 

 

「全員貪欲でフルパワー努力マン」という言葉を見て僕は冗談抜きで驚いた。

 

 

何を隠そう、僕は小学校中学校ともに受験をしなくても入れる地元の学校を卒業していて、僕の住んでいた地域は生活水準が比較的低く(僕の家も家賃数万程度の市営の集合住宅でした、いまは引っ越しましたが)、噂によれば選挙の投票率は20%台、俗に言う「ヤンキー」もけっこう多かったという地域であった。

 

「貧困地域」といってもまあ許される程度の場所で、(その地域だけが学区ではなかったが)そのような生活水準の生徒たちが集まる学校であった。

 

 

 

特に中学校で常にトップの成績を僕は取り続けていたのだが、先ほどのツイートにある「努力家がなじられイジメっぽくなっていた」というのは実際僕の身に降り掛かっていた出来事とほぼ同じで、トップの成績を取っていたことをバカにされ、肩身の狭い思いをしていたということは否定できない。

 

授業で発言すればクラスの1人が「ああーすげえなすげえなー」とたっぷりの皮肉をこめて言われ、周りもそれに同調しているという雰囲気である。

 

「出る杭は打たれる」という日本特有の風潮の、最も分かりやすい例だと僕は思っている。

 

 

 

別にそのようなノリがあることは完全悪だとは思わない。

 

やられていた僕側の意見だけを反映させるならそれは純度100%の悪であるが、やっていた側は、いい成績を取っていたことを別にそこまで本気で憎悪の対象とみなしているわけではなく、いわゆる「軽くイジっている」くらいの気持ちで声を出しているのだろうから、絶対にあいつらが悪いと大声を出して言うようなものではない。

 

 

しかし「出る杭は打たれる」という言葉を聞いたときに、けっこう多くの人が悪い印象を抱くというのは事実であろう。

 

 

 

「日本人はシャイだ」「同調圧力」「みんなが持っているから私も持たないと置いていかれる」

 

 

集団の流れに乗ることはたしかにマジョリティに属する安心感を得られる要素であることは間違いないし、日本が鎖国していて国の文化に大きな変化があまりなかったなど、考えればそれなりに言い訳紛いのものを思いつくことはできるが、先のツイートにあった「経験的事実」がこの国の悪しき風潮に寄与していると言うのは、決して言いすぎたことではないのではないだろうか。

 

 

エゴでない自己主張がすんなり受け入れられる、なにかにひたむきに一生懸命になっている姿が周りから認められやすい、そんな雰囲気の社会に住めていれば僕の苦労も軽くはなっていたのかなと思うこの頃であるが、「住めば都」という言葉もまた皮肉なことに事実であって、いまの社会に慣れきって日々行動をしている自分が、間違いなくこの世の中に存在している。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

モヤモヤが消えない人もいらっしゃると思うので説明しときますが

いらっしゃいませ→エアロ・スミス、ありがとうございました→アラン・ドロン不在でした

の対応については、こちらの動画をご確認ください。

 

 

 

 

 

 

 

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