とある東大生の脳内をのぞく

こういうこと考えてる東大生もいるんだなあ

反抗期

 

 

僕の身内の1人が、ただいま絶賛反抗期である。

 

親の言うことひとつひとつにいちいち反抗し、それにイラついた親も臨戦態勢で会話を続ける。

 

 

子供が反抗期に入ると親はだいたい「うちの子もう反抗期がすごくて…」などと友達に愚痴り、なぜかあたかも反抗期に入って気が立っている子供が全て悪いかのような扱いをすることがほとんどである気がする。

 

子供が全て悪いかのような扱いとまでは言わなくとも、もう一つ例をあげるなら「反抗期は年頃の子には付いてまわるものだから、多少は反抗されても仕方ないよね、我慢するしかないよね」のように、どこかその責任を子供に押し付けるような態度がある。

 

 

しかし、それは本当にすべて子供側の問題なのだろうか?

 

反抗期には、親と子のどちらかだけで成立するのではなく、親と子どちらもいて初めて子供側に起こる現象なのだから、その責任を子供だけに押し付けるのは少し早とちりである気がする。

 

それではここから、僕がその身内と親との会話を聞いて思ったことを述べ、適宜外部の情報を参照しながら、反抗期について少し考察してみたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

「反抗期」でネット検索をしてみると、コトバンクでは次のように解説されている。

 

精神発達の過程で成熟に先立ち,他人の指示に抵抗を示したり他人との社会的交渉を退けたりして拒否的態度や行動を示す期間をさす。幼児期に親の指示に反抗したり強情を張ったりする時期を第1反抗期,青年期の初めないしそれに先立ってふさぎ込んだり,また人に逆らって乱暴したりする時期を第2反抗期と呼ぶ。

 

そもそも反抗期には、幼児期のものと青年期のもので2つの種類があるようだが、まえがきの雰囲気からも分かるように、ここでは青年期の反抗期について考えることにする。

 

この解説の中にある「ふさぎ込んだり」という文言については、リビングなどの共同生活の場所におらずに自分の部屋にこもっていたり、親に論破されてふてくされていたりする子供のイメージのことであろう。

 

 

僕の体験談に戻るが、僕の身内とその親の会話のうち戦が始まってしまったときの会話をきいていると、子供から会話を始めることはほとんどなく、親が言ったことに子供が反抗、それに親が逆上ししょうもない戦いが始まるという流れをだいたい取っている。

 

 

 

 

さて、ここで着目すべき点は、大体の場合が大人から会話を始めているという点である。

 

たしかに子供から話しかけて会話が続く中で子供がキレはじめるというパターンもなくはないが、そもそも反抗期中の子供は(上の「ふさぎ込んだり」のところにもあるように)基本的に家で会話をしたがらないので、反抗期の子供との会話は親から始まることが多いと言える。

 

 

加えて、親がはじめる会話は主として「いやそれって別にきかなくてもよくね?」と思う質問だったり「それ子供1人でもできるから言わなくてもよくね?」というものが多い。

 

例えば「明日の遊ぶ予定って何時からなの?」とか「寒いから歩きじゃなくて車で送ってこうか?」など。

 

それが親の子供を思う心だ、ということは理解しているが、どうも反抗期の子供にとってはそれがうっとうしいらしい。

 

 

ここで、先ほど載せたコトバンクからの引用にある「…成熟に先立ち、他人からの指示に抵抗を示したり…」ということに着目する。

 

具体的な核心に迫るには少し論理の飛躍が気になるところではあるが、まずはこの2つの要素から、少なくとも「反抗期は子供だけのせいではない」ということは分かる。

 

親が、いわゆるお節介のような内容で会話を始めることにより、子供がそれに抵抗を示すということなのであるから。

 

 

 

 

そして、その抵抗に基づくものはなにかというと

 

子供の「自立したい」「大人だと思われたい」という気持ち

 

であろう。

 

 

親は、子を思う気持ちに依存して子を手助けするような言動を取るが、その言動は「自立した大人だと思われたい」という子供のある種のプライドのようなものに触れて反抗する。その反抗に対し親は「思いやって言ったのにその態度はなんだ」となって開戦する。

 

 

この、子供の自立したいという気持ちに対する理解の欠如は思ったより多い。

 

この気持ちに気づかない親のエゴが、反抗期の子供とその親の終わりなき戦を生み出す原因のひとつだと言ってもよく、反抗期を頭ごなしに子供に押し付けていると、このループから抜け出すことはできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし仮にそれを理解できていたとしても、たいていの親は、大切に育ててきた子供が自分から離れていってしまう寂しさのようなものに駆られ、分かっていてもまたお節介をしてしまうものである。

 

10年以上、まだこの子が目も見えず、記憶さえままならず、自分にぴったりくっついて温もりと栄養を求めて泣き叫ぶことしかできなかったときから宝物のように見守ってきたのに、その子が自分から離れることを選ぼうとしているのだから、相当の精神力、子育てに対する理解がなければ受け入れられない現実だろう。

 

 

だがいつか、現実を受け入れられないで足踏みしている自分を優に追い越して成長し、そんな親の気持ちを子が理解するようになり、その成長を目の当たりにした親は「この子はもう本当に自立していくのか」と思い知らされ、寂しいながらも我が子の巣立ちを陰から見守る。

 

 

たくさんお節介をかけたから、たくさん反抗されたからこそ理解は深まるのであり、そういう点で反抗期は意味があるものになる。

 

 

 

そして逆説的ではあるが、反抗的な態度を取っている子供は、親から発せられるうっとうしい言葉を理解するために、君に対する親の感情を知っておいてほしい。

 

親はわざわざ余計なことを君に言ってくるが、それは親が君のことを大切に思ってくれていることの裏返しである。

 

外出している間に掃除されている部屋、畳まれた洗濯物、産まれてからずっと食べてきたご飯の味。

 

親の愛はこうして目に見える形だけに出るとは限らず、ときにはお節介にも、ときには邪魔にもなりうるような見えない言葉にも表れる。

 

経験を積んで本当に君が自立したとき、そして家庭を持って子を授かったとき、必然的に、というか嫌でもその気持ちを知ることにはなるが、君を思ってくれる親の存在が今もたしかにそばにあるのだから、それは一足先になってもよいのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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