とある東大生の脳内をのぞく

こういうこと考えてる東大生もいるんだなあ

【5月祭】新元号は「タピオカ」です。@正門横1

 

 

こんにちは!わいあーるです。

 

 

今回は、勉強法の記事の前に5月祭の宣伝です!

 

今まで隠していましたが、僕は理科一類13組に所属していて、5月祭では

 

元号は「タピオカ」です。

 

という店名で、タピオカドリンクを販売します!!!!

 

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場所は【正門横1】というところです!(以下の地図参照)

 

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この↑地図の黒丸のところあたりにお店を出しています!

 

売るものは、ずばりタピオカドリンクです!!!!

 

味は

 

いちごみるく

・ミルクティー

・紅茶ストレートティー

・ほうじ茶ラテ

・オレンジジュース

・カルピス

 

の5種類です!幅広い層のお客様に楽しんでいただけると思います!

 

 

気になるお値段ですが

 

1杯250円(タピオカ2倍は+50円)

 

という、文化祭らしい破格設定になっています(笑)懐が痛い

 

しかも、安いからといってチンケなドリンクを販売するのではなく、きちんと1杯360mlのカップに入れてご提供します。

 

360mlは、ゴンチャで言えばMサイズに近い内容量になっています。

 

これは僕たちの飲み物を買って一息つくしかありませんね…!!

 

 

ちなみに僕は、18日はだいたい全日お店にいて、19日は午後ならお店にいます!

 

ぜひお店の店員さんのだれかに「わいあーるはいませんか?」と声をかけてみてください。いればすぐに応対しますし、いなければ少し外しているということなので、また別の時間にお越しください。

 

ちなみに、クラスのみんなにはわいあーるの存在は1人を除いてバレていないので、僕がいないときにわいあーるという名前を出してもみんな「???」となると思います笑

 

 

ご要望があれば、受験のことを含めいろいろお話をする時間を取れると思うので、一般のお客様はもちろん、これから受験をむかえる人も、ちょっと勉強のペンを止めてぜひご来場ください!

 

 

 

明日明後日5/18(土),19(日)に、本郷キャンパス正門横1で、みなさまをお待ちしています!!

 

 

 

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僕の大学生活のビジョン

 

こんにちは。前回の更新からずいぶん日が空いてしまいました。すみません。

 

今回は、というか、ここから何個かの記事は、いつものくだらない僕の考察を書き連ねた内容ではなく「いま東大進学を夢見て努力している人を応援する気持ちで書く」というコンセプトのものを書きます。

 

というのも、この記事を書いている日に「非進学校の東大生が集まるコミュニティ」に入会審査をしてもらい、さすがに僕の高校の実績なら通るでしょと余裕ぶっこいてたら

 

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見事に落選。

 

たしかに私大はそこそこ出してますが、東大はたまたま一昨年昨年今年と3年連続して一人ずつ出ただけでそれ以前は4年に1回とかだし(オリンピックではない)、理系は僕が約10年ぶりですし…

 

個人的には、昨年のミス東大のにちこさんもこの団体の合格体験記に寄稿されてたので、俺もいけるかなあと思いましたが、あれはミス枠だったんでしょうか…

 

 

とにかく、一つの団体から入会を拒否されたので、ヤケクソになって「いま東大進学を夢見て努力している人を応援する気持ちで」記事を書きます。

 

僕がいまのところ書こうとしている記事は

 

・大学生活をどのように過ごそうと思っているのか(いまここ)

・僕の勉強法(心構え編、英語編、数学編、物理編、化学編、国語編)

 

です。思いつきで増える可能性がありますが、とりあえずこの7本です。

 

 

前置きが長くなりましたが今回は、僕が大学生活をどのように過ごそうと思っているのかを書きます。やりたいこと、意識することなど、思いつくことをいろいろ書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、そもそも大学生活って4+k年間、人によっては10年近くあるわけです。

 

長いように見えますが、なにも考えないまま過ごせばすぐ終わってしまう期間だと思います。なぜなら、大学やサークルの友達と遊んでると楽しくて、時の流れがとても早く感じるから。

 

じゃあその長いようで短い生活をどう有意義にしようか?ということを考えて、4月中の僕が出した結論・実際に行ったことはこちら。

 

 

 

①人脈を広げる

 

これは実際にやりました。4月は、いろんな大学のいろんな部活・サークルが新歓をやっています。そこに参加して知り合いを増やすのです。

 

東大生だから東大の新歓だけ、なんてことありません。他大のサークルの新歓や、いろんな大学の生徒が集まるインカレサークルの新歓に行って、幅広い知り合いを作りましした。

 

もちろんその中で本当に入りたいと思えたサークルには実際に入りましたが、新歓に行くだけでも、人脈を広げる以外に、新しい人と話して自分を覚えてもらうという練習になって、個人的に非常に有意義なことをしたと思っています。

 

この広げた人脈がどこで自分に影響するのかなんて分かりません。そもそもそんなことが予め分かっていたら、友達選びでさえもっと意図的になっていたはずです。

 

しかし僕は人と話すのが大好きですし、新しい人のいろんな体験とかすごさとかをきくのも好きですし、人脈は広いに越したことはないと思うので、たくさん新歓に行き知り合いを作りました。名前を覚えるのが死ぬほど大変であることに耐えられれば、ぜひみなさんにもオススメしたい行動です。

 

 

②将来から逆算する

 

早稲田のとあるサークル(飲みサーでした)の新歓に行って出会った早稲田3年の先輩に「できるなら、自分の将来像から逆算して今やるべきことを考えるのが効率がいい」とアドバイスをもらって、たしかにそうだと思いました。

 

行動するなら目標を持ったほうが、その目標が行動に意味づけしてくれて、有意義なものになります。逆説的ですが、その目標をもとにして今の行動を逆算すれば、自ずと意味あるムーブが見えてくるかもしれません。

 

これはまだ将来像が決まっていない僕は上手く実践できていないのですが、将来のことを真面目に考えさせてくれるきっかけになったアドバイスですし、どこかで必ず役に立つと思っています。

 

 

 

 

とりあえず僕が現時点で意識していることを書きましたが、将来像がまだない僕でもやりたいと思っていることがあります。それは

 

留学です。

 

今の時代、正直留学なんてかなりベタです。やってる人なんていっぱいいます。しかし僕が考えているのは、単位交換制度やインターンを視野に入れた留学です。

 

普通の留学は、1年くらい休学して自由の身になり(つまり1年留年して)、語学を習得したり異文化を学んだりなどしますが

 

興味ある仕事に関連した会社でのアルバイト、インターンなども視野に入れ、ついでに単位交換して休学せずに留学しながら学年も上げようかと思っています。

 

普通に留学してもそこまで成長しないと思ったからです。レベルがちがうのは分かっていますが、僕が昨年の3月に浪人を決めたときに「せっかく1年やるならトップのお茶の水校に行っていろんな経験をしよう」と思ったのと同様に「せっかく1年留学するならこの1年に詰め込めるだけ詰め込もう」と思っています。

 

具体的にどうしようかはこれからいろんな機会を探りながら決めていくつもりですが、僕は高2のときにニューヨークとボストンに短期研修に行ったことがあって親近感を抱いているので、できればボストンの大学に行って自己研鑽できればいいな、と思っています。

 

 

 

…という感じで簡単に筆を進めていますが、現実的に考えるとけっこう厳しい事実もあります。

 

まず1つ目に、資金の問題。

 

僕の家庭はそこまで裕福ではありません。大学の授業料も私立大学だったら危なかったくらいで、つまりこの感じでは留学資金はどうにかして自分の力で捻出しないといけなくなります。

 

単位交換制を使うならば授業料は東京大学に納めればよいですからそれは置いといて、置いといたとしても留学には現地で必要な資金など多く見積もって300万円以上は必要なのではないかと思います。

 

学生生活を8割くらいバイトに捧げれば2年程度でこの金額は手に入れられるかもしれませんが、他にやりたいことはたくさんあるので、そこで僕が考えているのが奨学金の給付です。できれば、返還義務のない給付型のもの。

 

日本学生支援機構ではなく、いまは様々な民間団体が給付型の奨学金の募集をしています。

 

僕の家庭事情であればギリギリ出願はできるので、可能性のあるチャンスはすべて掴みに行くという気持ちで、4月中はけっこう出願書類の作成に時間を使いました(それでも出願しきらなかった団体もあります)。

 

実際いまは、とある団体の書類選考に通って、某日に面接を控えている状態です。選考結果発表待ちの団体もあります。

 

といってもこれでも資金はまだまだ足りませんから、別のなにかの機会を探るか、自分でお金を稼いで足しにするということももちろん考えています。

 

 

2つ目に、本当に単位交換をしてくれるのかという問題。

 

というのも、海外の大学は学部4年間が一般教養の授業で、専門的な追求を開始するのは大学院などからというスタイルが多いです。

 

それに対し日本の大学は教養課程は長くても2年まで、3年以降は専攻が始まってしまうのです。こんな感じで、本当に単位は交換されるのでしょうか。甚だ疑問です。

 

 

 

というふうに、ひとくちに留学と言っても考えるべきことはたくさんあります。

 

しかも僕は東京大学での生活も疎かにしたくありません。

 

高校から続けていたスポーツのサークルに入って今はけっこう活動を楽しんでいますし、きちんと授業にもついていけるように放課後は図書館に入って勉強したりしています。

 

留学中は仕方ないですが、これからその準備や、バイトやインターンを始めて仮にそこに熱が入ってしまっても、特に勉強についてはテキトーに流したくないです。僕は理一から経済学部への進振りを狙っていて、それなりに点数を取らなきゃならないので今のうちはなおさらです。

 

 

そうなると本当に無駄なことができる時間って少ないんだな、と思います。

 

大学に入って少し休めるかな、と思っていましたが、そんなことはありませんでしたね。

 

けど浪人中みたいに嫌々走らされている感じではなくて、なにがあるか分からないけどとりあえず楽しそうだから走っている、という感じです。

 

 

 

大学生になると、将来のことはもちろん、自分の身の回りについても自分で考えなきゃならないことが増えてきます(特に一人暮らしをしている人はすべて自分で考える必要がある)。

 

そこで自分のキャパを超えてしまって、何者にもなれない自分をふと考え込んでしまうときもあります。

 

大学生活、楽しいことばかりではありません。新しいことをするには、今まで慣れていないものに順応するために違和感に強制的に触れなければなりません。

 

しかし、その違和感に触れてこそ、新しいことをやろうとしてこそ、楽しいことがたくさん見つかると思います。まずそのためには積極的に機会を掴みにいくことから始まります。

 

自分で動きにいって、やってみて初めて楽しくなります。大学生活の楽しさを決めるのは、結局自分の行動です。

 

 

勉強にサークルに交友にバイトにインターンに留学…どれもこなすのは無理だろう、と言われること間違いなしですが、そんなのやってみなきゃ分かりません。

 

二兎追うものは一兎も得ず、もとい、僕は大学生活でこそn兎追いたいです。そこでなにかが捕まらなかったとしても、追いかけること自体がいい経験になると思います。

 

僕の大学生活、けっこう楽しいというか、楽しくなる予感がします。浪人中に期待していたことが報われるかもしれません。

 

それは結局自分次第ですが、まず間違いなく言えることは、これから大学に進学するみんな、大学生活、期待する価値あるぞ。

 

 

 

 

では今回はこのへんで!次は「僕の勉強法(心構え編)」になります!

 

 

 

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小銭を減らしてお金を貯める方法

 

 

「小銭は金ではない」

 

 

予備校時代の友達が言い放った伝説の名言迷言である。

 

 

厳密には小銭もお金に分類されるものではあるのだが、ここでの意味は「小銭は使いやすすぎて消えるのが一瞬だから、お金とはみなさない」ということである。

 

たしかにコンビニでお菓子を買おうとしたとき、財布の中に100円玉が2枚あるのと1万円札が1枚しかないのでは、後者のほうが「いや我慢しようかな」という思いに至りやすいだろう。

 

この例をもとにすると「小銭が財布にたくさんあると、そうでない場合に比べてお金がなくなるのが早い」ということが予想できる。

 

例えば財布の中に1万円あるとき、それが大量の小銭である場合と1万円札1枚である場合では、圧倒的に後者のほうがお金の減り方は遅いだろう。そもそも前者の場合は小銭が多すぎてどの硬貨が何枚あるか把握できず、残金がいくらであるかがよく分からないため、自分の金づかいの制御が難しい。

しかもなんとなく小銭が財布に大量にあって財布が膨らんでいるとみっともないというか、逆に小銭が少ないと財布もスッキリしてスマートに見えなくもない。

 

 

 

さてここで、上の予想の裏を取ると「小銭が少なければ、そうでない場合に比べてお金がなくなるのが遅い」と言える。

 

しかし、小銭を出さないように買い物をするのは現金社会の日本では無理な話であるから、考えるべきことは、どうすれば財布の中の小銭の数を最小にできるか、ということである。

 

というのは、例えば財布に280円入っていて、その硬貨の内訳が

100円玉×2枚 50円玉×1枚 10円玉×3枚

のときが小銭の数が最小になる状態で、10円玉×8枚とかにはならない。

 

 

こうひとくちに言っても、常に小銭に気を配りながら財布を開くのはけっこう時間がかかることだし、なにより精神的にキツい。

 

それではここで、筆者わいあーるが常に実践している「そこそこ簡単に小銭の数を減らす方法」を書きたいと思う。実際僕の財布の中の小銭の数は、1人でいるときは常に最小である。

(だれかと一緒にいるときは、小銭のことなんか気にせずなるべく早く支払いを済ませる)

 

いきなりそれを書いても少々分かりづらいから、順を追って説明していこう。

 

以下では、いちいち◯◯円玉×△枚と書くのは面倒だから、例えば100*2のように

(金額)*(枚数)という表記を用いる。

 

 

 

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ブタの画像を貼ったが、特になんの意味もない。というかこれでは小銭が多すぎである。

 

 

 

・ステップ1

 

120円の買い物をしたとする。財布の中には100*2と10*2がある。

 

ここで単に100*2を出しても200-120=80で買い物は成立するが

 

220-120=100とすれば、財布の残りが100*1となる。前者の場合は10*10(50*1+10*5も考えられるが大差ないため説明が簡単な10*10にする)となる。

 

このような、端数を合わせて小銭を出すやり方はごくごく普通であると僕は思っているが、ここで少し特殊な考え方を導入したい。

 

前者の場合200-120=80で、10*8のお釣りが返ってくる。このお釣りと財布の中に残った10*2に着目して「10*2と10*8で10*10だからまとめて100*1にできる、じゃあここで最初に出した100*2と一緒に10*2も出せば100*1のお釣りが来るな」という考え方をしてほしい。

 

この考え方を便宜的に「お釣り読み」と呼ぶことにする。

 

ステップ1のような単純な例ではお釣り読みをするまでもなく220円を支払う人が大半であろう。しかしこれは、財布の中と支払い金額が複雑になったときに大きな威力を発揮する。

 

 

 

・ステップ2

 

270円の買い物をしたとする。財布の中には100*3と10*2がある。

 

ここで単に100*3を出しても300-270=30で買い物は成立するが

 

320-270=100とすれば、財布の残りが50*1となる。前者の場合は10*5となる。

 

これも、32-27=5(より簡単にすれば12-7=5)という事実に基づけば、あまり考えなくても320円を支払うことができるが、慣れる意味も含めてお釣り読みをしてみると

 

前者の場合300-270=30で、10*3のお釣りが返ってくる。このお釣りと財布の中に残った10*2に着目して「10*2と10*3で10*5だからまとめて50*1にできる、じゃあここで最初に出した100*3と一緒に10*2も出せば50*1のお釣りが来るな」となる。

 

 

だんだんとお釣り読みの概念にも慣れてきたであろうか。簡単な例をもう少しだけ見て、ステップ4で実践的な例を見てみる。

 

(ステップ2がほぼステップ1のコピペであることに気づいたみなさん、許してください)

 

 

 

 

・ステップ3

 

1,234円の買い物をしたとする。財布の中には1,000*2と500*1がある。

 

このとき、単に1,000*2を出しても2,000-1,234=766で買い物は成立するが

 

2,500-1,234=1,266とすれば

残りが1,000*1 100*2 50*1 10*1 5*1 1*1となる。

前者の場合は500*2 100*2 50*1 10*1 5*1 1*1となる。

 

これも、234の部分を500で賄ってお釣りを出せばいいじゃんというノリで割と容易に解決できる。お釣り読みをしたらどうなるかは各自で考えてみてほしい(書くのが面倒なだけですごめんなさい)。

 

少し記事の趣旨からは逸れるが、いまの例は、支払い方次第で小銭の数を減らし、なんとお札に変換することまでできてしまうという点で優れている。小銭とお札の重みは大きくちがう(と僕は思っている)。

 

さていよいよ、本格的なケースを考えてみる。

 

 

 

・ステップ4

 

19,440円の買い物をしたとする。

財布の中には10,000*2 100*3 50*1 10*3 1*4がある。

 

このとき、単に10,000*2を出しても20,000-19,440=560で買い物は成立するが

 

20,050-19,440=610とすれば

財布の残りが 500*1  100*4  10*4 1*4となる。

 

前者の場合は

お釣りで 500*1  50*1  10*1が来るから

残りは 500*1  100*3  50*2  10*1  1*4となる。

 

 

 

お分かりいただけただろうか。

 

いままでは単純化されたモデルを扱っていたからすぐに理解できたかもしれない。

しかし今回は今日僕が腕時計を買ったときの財布の中身と支払い方法をそのまま書いたので、少し実践的かつ複雑でついていけなさそうな気もするが、ここで例の「お釣り読み」を適用しよう。

(もしお釣り読みをする前に上の文章を理解しようとするときは、実際に小銭を使ってやってみると視覚化されて分かりやすいです)

 

  

上の文章の太字部分に着目してほしい。10,000*2を出した場合、560円のお釣りが上の太字部分のような内訳で来るから、 これを財布の中の50*1と照らし合わせて「あっじゃあここで50*1を出せばそれが100*1にまとまる」と考えられる。

そうすれば、上記のように財布の中に50*2がある状態を回避できる。

 

 

 

お釣り読みをしてもいまいち「ま、たしかにそうだねー(棒)」のようにしか思えないかもしれないが、これを知らずにいきなり20,050-19,440=610という式を思いつくことと比べてみれば、違いは一目瞭然である。

 

 

 

 

 

 

どこか物足りないので、これについて少し考察してみる。

 

まずこの例の分かりにくさの原因は、もともと財布に入ってる小銭の数が多いことにある。

 

たしかに最小の小銭の数であるのだが、それにしても小銭の数が多く、初見ではどの硬貨を選べばよいかの取捨選択の難易度が高い。

 

お釣り読みではその問題を「硬貨ごとに着目して、余っている硬貨だけを選ぶ」というように分担している。

 

 

 

次に、お釣り読みの最大の利点は、多くの人間は込み入った引き算が苦手であるという事実に基づいている。

 

というのは、この例において

 

・20,050-19,440という演算をして正確に答えを出す

・まず20,000-19,440という演算をしてその答えを財布の中身と照らし合わせる

 

という別々の作業を比べれば、2つの意味で後者のほうが圧倒的に簡単な作業だからである。

 

まず1つ目は純粋に「1万円札2枚で支払うことと、1万円札2枚に50円玉を加えて支払うこと、どっちが自然な発想であるか?」と問われれば分かる。いままでの経験からして、どう考えても1万円札2枚のほうが自然に思いつく払い方だろう。その自然な思いつきを修正して50円玉を後から加えるほうが簡単である。

 

2つ目は、20,050-19,440=610と20,000-19,440=560という演算を比べると、後者のほうがシンプルで計算ミスもしづらい。財布の中身を見て50円玉を後出しする行為は、上の「この例の分かりにくさの原因」の部分でも述べたように、分担して考えていることによって簡単なものとなっているから、前者の演算の負担に比べればちっぽけなものに見える。

 

たしかに言われてみれば

20,050と19,440を200&50と194&40に分解して200-194と50-40をすれば簡単だよ

というのも理解できるが、買い物中にそれを直感的に思いつく人なんているのだろうか…

 

 

 

 

 

 

 

 

以上で、とりあえず書きたいことは十分詳しく説明して書いたつもりだが、ここ何言ってるか分かんねえよ!という声があれば、積極的にコメントしていただきたい。

 

たしかに少し複雑で、慣れるまで時間がかかるかもしれないが、いつでも「硬貨ごとに分担して考える」という意識を持てば、人を待たせずとも省エネな支払いができるようになるだろう。

 

しかもこれは対人での会計だけでなく、自動販売機や精算機のようなところでも使えるテクニックであるから、いろんな場面でぜひ積極的に利用してほしい。

 

 

 

 

 

と長々書きましたが、正直いちいちこんなこと考えるの面倒なので、日本も早くアメリカみたいにクレジットカード社会にならねえかなあ…と思ってます()

 

 

デフォルメ

 

気になる人ができたとして、その気になる人が例えばけっこうおとなしめの人だったとする。

 

話せば楽しいけど自分からあまり騒ごうとしない、合コンでの例をあげれば「話をふれば普通にしゃべるけどそうでないときはおしゃべりな人の話を聞いていることが多い」タイプの人。

 

 

このように、人を気になった状態でその人と会わない期間が何日か続くと、少なくとも僕の中ではその人のデフォルメが始まる。自分の中でのその人の性格が極端な方向にいってしまう。

 

 

この現象は、この説明だけでは少々分かりづらいと思う。

 

 

ではここで、そのデフォルメの結果どんなことが起こるかについて話すと

 

その人の行動が「意外なもの」に見えてしまうことが多くなる。

 

例えば、そのおとなしい人が友達にお金を借りていたとすると「えーこの人も友達からお金借りるとかそういうこともするんだ」という感情がわく。

 

「おとなしくてマジメそうなのに」という考え方である。

 

 

おそらく、僕と同じ経験をしたことがない人がこの文章を見ると「なにそれ…普通におとなしくても金は借りるだろ…なに言ってんだコイツ…」と思うにちがいない。

 

その通り、それは自分の中で性格がデフォルメされて極端になっているから起こることであり、そうなったことがない人、つまり極端な状態を経験したことがない人から見れば「異常」と言っても差し支えないことである。

 

しかし会わない状態が長く続くと、僕の場合はときどきこういうことが起こる。

 

 

 

さて、僕の話は置いといて、このデフォルメ、もう少し意味を広げると「すれちがいの原因」になるのではないか?

 

単刀直入に言ってしまえば「自分が期待した相手の像と実際の相手の像に食い違いがある」という感じに敷衍することができ

 

気になる人に対するあの程度のデフォルメなら「へーそんな一面もあるんだ」で済んでしまうが

 

これがもう少し進展したとき、自分が思っている相手と本当の相手の姿がちがったりすると、そのデフォルメは一方的な思い込みに姿を変え、それは直接的にすれちがいの原因となる。

 

もう少し詳しく説明すれば、気になる程度ならまだしも、本気でその人を狙いに行こうとしたとき、相手に多少なりともアクションを仕掛ける必要があり(僕/私はモテるのでアクションの必要ないですって人は帰ってください)

 

そこで調子に乗って自分の思い込みに従って行動すると、そんな姿を持ってはいない向こう側からすれば「この人なにしてんの」となり、これはまさに第三者的視点から見れば「すれちがい」になる。

 

 

 

 

だからこそ、そういう思い込みができてしまうからこそ、人とはきちんと会って、面と向かって会話をして互いを理解することが大事なんだ、と気づかされる。

 

 

 

 

 

時の流れ

 

僕は、3月の初めに1つ歳をとる。

 

浪人時代、それを友達に伝えると、99.9%の確率で次のように反応された。

 

 

 

「えーっもう入試終わってるじゃん」

 

 

 

そのときは目の前の勉強をこなして実力をつけることに精一杯だったから、入試のことなんか、遠い未来のように感じていた(嫌なことは長く感じるという主張と繋がる)。

 

すなわち、その反応をされたそのときは、自分の19歳の誕生日が来るときなんてまだまだ先のことだと感じていた。

 

 

しかしいま、僕は無事に19歳になって志望校に合格し、あれだけ憧れた大学生活を送っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれだけ憧れた、と書いたが、憧れとその現実は必ずしも一致しない。

 

憧れとちがうと言っても、嫌なことがあるのは仕方ない。

 

大学を卒業するために求められることはただひとつ、学問を修めることである。

 

卒業するには、これから逃げることはできない。嫌なことがあるのは仕方ない。

 

 

 

ただ、避けられるはずである「嫌なこと」に直面しているとしたらどうだろう?

 

例えば、入ったサークルが思ったより面白くなかったが、できてしまった人間関係などもあってなかなか活動の頻度を落とせないでいる。

 

入学直後に作った友達が意外と自分に合わないが、最初からずっと一緒というのもあってなかなか距離を置けずにいる。

 

新しい出会い、新しい機会がたくさんある大学生活では、こういう「心の違和感」を持たざるを得ない状況に直面することが往々にしてある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が1年大人に近づく日が遠い未来のように感じたときがあったはずなのに、僕は今こうして19歳の生活を送っている。

 

 

まだまだ先だと思っていることも絶対にいつか来てしまうし、時は確実に流れ、僕らはそれに逆らえず老いてしまう。

 

 

若い今は、自分が将来ヨボヨボになって、場合によっては車イスを使ったり病院のベッドに寝たきりになったり、なんて考えられもしないが

 

入試が終わって僕がひとつ歳をとったように、老いもいずれやってくる。

 

 

僕らに与えられた時間はたしかに多いが、それは確実に限られている。

 

そう考えると、やりたいことは後回しにしないほうがいい、と最近強く思う。

 

 

自分が直面している「嫌なこと」がもし避けられるものなのであれば、積極的に自分の状況を変えに行ってほしい。

 

同じ場所で我慢してがんばる必要はない。この広い社会で、僕らの居場所は、1ヶ所に限られたものでは決してない。

 

今の場所が嫌でその抜け道があるのなら、勇気を出して自分(の環境)を変えに行こう。

 

僕らはいずれ老いる。だとしたら、今いる嫌な場所を抜け、元気のある若いうちは自分が安らげる環境に身をおいて、やりたいことを思う存分やろう。

 

自分(の環境)を変えるのには勇気がいる。

 

でも、変えた先に自分の喜びが待っているのなら

 

 

もう、踏み出すときはすぐそこにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

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5-1月病

 

 

五月病」は、割ときいたことがある単語である。

 

Wikipediaの「五月病」のページの冒頭には

 

 

五月病(ごがつびょう)とは、新入社員や大学の新入生や社会人などに見られる、新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状の総称である。

 

 

 

と記載されている。

 

 

ところで「四月病」という言葉もあるらしい(知名度はかなり低い)。

 

これを調べてみると、面倒なことに、サイトによって

・新生活が始まってやる気が上がって急に意識高い系になっちゃうこと

・新生活に適応する上でストレスがたまってしまって出る症状

の2つの記述に分かれている。

 

勘のいい、または東大理1を目指す浪人生の物語から読んでくださっている読者の皆様は薄々お気づきかもしれないが、当然僕の書きたいことは後者である。

 

しかし、1つに定まらない(あまり有名な言葉ではないからであろうが)概念を含む言葉を使うのは混乱を起こしかねないので、五月病という言葉をベースに、四月に僕が経験しているという状況を当てはめて、ここに「5-1月病」を定義する。

(決して「ごねんいちくみつきびょう」と読んだり、演算を実行したりしてはいけない)

 

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単刀直入に言えば、土地も人間関係も広い「大学」という場所で生活を始め、今までのような狭く深い友好関係がなくなり、それに寂しさを感じているということである。

 

浪人ブログから読んでくださっている人から「いやお前メンタル弱すぎ寂しがりやじゃねーか」と罵倒されることは覚悟して書いているのだが

 

本当に心を許せる拠り所がなくなったor減ってしまったのは、正直寂しい。

 

駿台お茶の水校から一緒に東大へ進学した友達は20人近くいるが、大学で同じクラスの人はおらず、みなそれぞれの世界に飛び込んで、なぜか、なぜかひとり取り残されてしまった気がする。

 

そう、なぜか、である。

 

というのも、大学のクラスで孤立しているわけではないのだ。

 

オリ合宿で深夜までゲームを一緒にして仲良くなった友達が15人近くいて、授業も一緒に受け、五月祭の出し物の会議にも積極的に参加している。

 

しかし、夜になり、授業が終わって帰路につくと、今まで楽しく過ごしていた仲間たちがふと恋しくなる。

 

 

 

 

ここで気持ちを率直に書き残しただけでは、ただのメンヘラブロガーの戯言になってしまう。

 

なぜ僕はこんなメンヘラになってしまっているのか、僕なりに考えついた理由をいくつか述べる。

 

 

 

 

①新しい環境に慣れきっていない

 

先ほど書いたので特に説明はしない。

 

 

 

②大学の友だちと知り合ってまだ日にちが浅い

 

それはそうである。

 

プレオリの日に顔合わせをし一緒にオリ合宿をしたとはいえ、まだ知り合って2週間も経っていない。

 

信頼できる心の拠り所がいないのも、当然の話である。時間が解決してくれるだろう。

 

問題は、ここからである。

 

 

 

③睡眠時間が足りていない

④お腹が空いている

⑤最近運動をしていない

⑥授業で疲れる

 

「は?」と思った人がほとんどだろう。しかしこれはおそらく事実である。

 

まず先ほど「夜になって、帰路につくと」寂しくなると書いたことを思い出してほしい。

 

夜、授業が終わって帰るとき、まさにそのときは疲れており、夕ご飯前でお腹が空いている。疲れと空腹は、基本的にお豆腐メンタルへの最短経路である。

 

 

そして睡眠、運動不足。

 

それについては、Testosterone氏著作の「筋トレが最強のソリューションである」からの次の引用を参考にしてほしい。

 

 

「あれ?俺 / 私、メンがヘラってる?」って思ったら試すべき5つの行動

①8時間睡眠の確保

②週3日の運動(筋トレが至高)

③朝起きたら太陽の光を10分は浴びる

④3食しっかり食べる

⑤だれでもいいので悩みを話す(僕はよくダンベルに話しかけてる)

効果はすべて科学的に証明されています。

 

僕がダンベルに話しかけるかはさておき、この5つはかなり有効性のある主張であると思う。

 

科学的にどうなの?とかは、テストステロンとかセロトニンとかの話を持ち出さなければならず長くなるので割愛するが、たしかに僕は最近6時間近い睡眠時間で大学に通っていたし、浪人時代は朝の日課であった筋トレもサボってほぼしていない。

 

早速今日から改めようかな、と思う。この筋トレ本は読んでてかなりタメになることがたくさん書いてあるので、お時間があればぜひお手にとってほしい。

 

 

 

世界をいくつも持っておく。

仕事の世界、家族や友人との世界、色恋の世界。

延長線上で考えるのではなく、全部切り離して考える。

どれか順調にいっていれば他がダメでも耐えられるし、何より一点集中は気張り過ぎちゃってよくない。気楽にゲームソフトを数本同時進行しちゃう感じぐらいでちょうどいい。

 

友人たちとの世界に一点集中しすぎてメンがヘラっているのだから、他の世界に情熱を注ぎ、その間に自然と友人たちとの世界も上手く行かせるのが得策なのだろうか。

 

見つめる鍋は煮えない。

 

 

 

 

 

 

ちなみに文中の<><><><><>...より前の場所は帰りの電車の中で(病んでるとき)、後ろはご飯を食べて風呂に入ったあとにゆっくりしながら書いた文です。同じ記事なのに、僕の中では熱量が全然ちがいます(もちろん前者が熱い)。読者の皆様にも、一目瞭然でしたでしょうか…

 

 

 

 

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"若者言葉"としての「ヤバい」

 

 

駒場での授業を終えたあと、渋谷駅で京王井の頭線を降りたとき

 

「山手線とか本当にヤバいよね」

 

という言葉を耳にした。

 

折り返しの電車に乗るために僕とすれ違ったJKから発せられたものである。

 

 

 

この言葉だけ聞いて「いやなにがどうヤバいんだろう」と思ってしまった。

 

お前、知らない人の言葉にも食らいつくって好奇心旺盛だな、ということを書きたいのではない。

 

この発言から、我々が使う「ヤバい」という言葉の本質が垣間見える。

 

 

 

 

 

 

ここで、ヤバいという言葉の意味を調べてみると、Weblio辞書には次のように記載されている。

 

 

 [「やば」の形容詞化。もと、盗人・香具師(やし)などの隠語 ]

身に危険が迫るさま。あぶない。「ー・いぞ、逃げろ」

不都合が予想される。「この成績ではー・いな」

若者言葉で、すごい。自身の心情が、ひどく揺さぶられている様子についていう。「この曲、ー・いよ。」

  

 

ちょっと引っかかる "若者言葉" という単語は後に回しておいて「ヤバい」について考察しようと思う。

 

 

 

そもそもヤバいは盗人や香具師(テキ屋のこと)の隠語である「やば」という単語が形容詞化したものだと書いてある。

 

 

ヤバいは悪いことに使うのが正しい …☆

 

という意見はよく耳にするが、たしかに盗人を表す言葉が語源になっているのだから、悪いことに使うのが本来の意味である(テキ屋さんは別に悪い人じゃないと思うので触れません)ことは簡単に分かるだろう。

 

しかし僕も含め(僕の用途は狭いです。後ほど)、若者の大半は「ヤバい」を、次のように必ずしも悪いとは言えない意味でも使う。

 

「ヤバーいこれかわいい〜」

 

 

悪いものに対してかわいいという言葉を使うのは、小悪魔系の女の子にやられたプライド高めの男が「俺もこんなあざとい手に引っかかる凡人だったのか」と悔しがり自分の意志に反しながら相手のことをデレデレに褒めるときくらいで極めて限定されていてほぼ考えなくてよいから

 

上の「ヤバい」は良い意味で使われていると考えることができる。

 

 

 

そもそものヤバいの本質は悪いものを形容する言葉であるが、このように悪くないものにも「ヤバい」という語が使われるようになったいま「ヤバい」という語の本質はどうなってしまったのか。

 

 

僕が考えるにそれは「程度のはなはだしさを表す」である。

 

 

 

程度のはなはだしさ…という言い方をするとどうしても古文単語が頭に浮かんでしまうのが受験勉強病の患者(僕です)であるが

 

古文単語には、程度のはなはだしさを表す単語がいくつかある。

 

その中で、現代語の「ヤバい」にちょっと似たような単語があって、それは「いみじ」である。

 

 

Weblio辞書によれば「いみじ」の意味は

 

①はなはだしい。並々でない。

②よい。すばらしい。

③ひどい。恐ろしい。

 

  

である。

 

良いも悪いも表せる、まさに「ヤバい」のような単語で

 

実は僕が先ほど気づいた「ヤバい」の本質は、冒頭の山手線がヤバい話と、この単語の知識を結びつけて得たものである。

(「ヤバい」のように、悪い意味→良い意味 という順かは不明)

 

 

 

このような本質の変遷があるから、冒頭の「山手線とか本当にヤバいよね」という言葉を一度きいただけでは、何がヤバいのかよく分からないのだ。

 

おそらく、山手線は混み具合がヤバい(悪)というのが意図されている可能性が高いが、もしかしたら彼女らが鉄分多めのJKで、山手線E235の車両(電子レンジ)の姿に興奮して「ヤバい」(良)と言ってるのかもしれない。

 

 

どちらにせよ「ヤバい」がただ単に程度のはなはだしさを表す単語になったから、あの言葉の本当の意味をすぐに汲み取れなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

さて次は、後回しにしていた "若者言葉" について意見を述べさせてもらう。

 

 

そもそも "若者言葉" ってなんなのだろうか。

 

いや意味は分かる。若者しか使わない言葉である。

 

でもそれってなんなのだろうか。どう考えても日本語に精通しててお偉い(笑)学者様が僕ら若者を若干軽蔑して申し上げ始めたにちがいない(わいあーる調べ)。

 

若者しか使わない言葉の出現は、どの言語においても、言葉の使い方の変遷と直接結びついている非常に言語学的に興味深い事例である。

 

そんな事例に大人(笑)は「我々大人が慣れてない言葉を使うんじゃないよ!」と言わんばかりに "若者言葉" といういかにもアホ丸出しな名前を与えてしまった。

 

上に☆とつけさせてもらった主張も、だいたいの場合は僕らより年齢が上の人や、そういう人たちの言うことをどこかの鳥のように何も考えず丸のみにしている人たちがだいたい言っている(わいあーる調べ)。

 

 

 

 

大元に戻れば、そもそも僕らがネイティブとして使う日本語に、正しいまたは間違った日本語なんてあるのだろうか?

 

通じれば全部正しいのではないか?

 

 

 

なぜならば、日本語を使うのは僕らだからである。

 

日本語を使い、紡いでいくのは、紛れもなく僕らである。

 

僕らが紡いでいく日本語を「辞書の意味」とか「文法」とかで自ら制限しているのは、バカバカしいことではないか。

 

僕らが使う日本語が「辞書の意味」になり、僕らの日本語の使い方が「文法」になるのであって

 

「辞書」や「文法書」で最初から僕らの日常の日本語の使い方を制限するのは、単純に順序が逆だと思う。

 

 

 

たしかに辞書は「大半のネイティブが使う日本語」を示す上で重要な役割を果たしており、ネイティブといえど知らないような日本語を参照したり、日本語を外国語として学習する人々の参考として使われたりする。

 

さらに、どの言語でも、かしこまった場面では文法が厳しくなる傾向があるから(これは「正しい」文法が避けられない共通認識になってしまったからに他ならないが)、そういうときのために文法書は活躍する。

 

 

しかし先程も言った通り、僕らの言葉が日本語になるのだから、辞書や文法書にこだわったり自分が聞きなれてない言葉に反発したりして「その言葉づかいは間違っている」と頭ごなしに否定するのは、それこそが間違っていると思う。

 

特に後者のようなことをしてる年上の人間を見ると「いや俺らが悪いって言うけど、裏を返せばお前が無知なんだぞ…」と言ってしまいたくなる(我慢してます)。

 

もちろん、日本語を初めて学ぶときからこんなことを言っていてはキリがないから、初修のときは「正しいと言われている日本語」を教え、マスターしたら自由にするという方が手っ取り早いだろうが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言語の話をするときは、民族的な帰属意識や文化的なちがいが出やすいから、慎重に書かざるを得ず、精神がすり減るのであるが

(だからこの記事には「日本語」という言葉がたくさん出てきますが「日本人」という言葉は出てきません)

 

それでも、以上のことは、考察してみるとけっこう面白いものである。

 

 

 

 

 

 

あっちなみに途中で出てきた僕の「ヤバい」の用途は

「スポーツや勉強や娯楽などで自分より圧倒的に卓越してる人を見て『あいつヤべえな』とつぶやくとき」

ですが、イキそうな女性が「はぁ〜ヤバい」とか言ってるのも、けっこう好きです(わいあーる調べ)。

 

 

 

 

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