とある東大生の脳内をのぞく

こういうこと考えてる東大生もいるんだなあ

5-1月病

 

 

五月病」は、割ときいたことがある単語である。

 

Wikipediaの「五月病」のページの冒頭には

 

 

五月病(ごがつびょう)とは、新入社員や大学の新入生や社会人などに見られる、新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状の総称である。

 

 

 

と記載されている。

 

 

ところで「四月病」という言葉もあるらしい(知名度はかなり低い)。

 

これを調べてみると、面倒なことに、サイトによって

・新生活が始まってやる気が上がって急に意識高い系になっちゃうこと

・新生活に適応する上でストレスがたまってしまって出る症状

の2つの記述に分かれている。

 

勘のいい、または東大理1を目指す浪人生の物語から読んでくださっている読者の皆様は薄々お気づきかもしれないが、当然僕の書きたいことは後者である。

 

しかし、1つに定まらない(あまり有名な言葉ではないからであろうが)概念を含む言葉を使うのは混乱を起こしかねないので、五月病という言葉をベースに、四月に僕が経験しているという状況を当てはめて、ここに「5-1月病」を定義する。

(決して「ごねんいちくみつきびょう」と読んだり、演算を実行したりしてはいけない)

 

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単刀直入に言えば、土地も人間関係も広い「大学」という場所で生活を始め、今までのような狭く深い友好関係がなくなり、それに寂しさを感じているということである。

 

浪人ブログから読んでくださっている人から「いやお前メンタル弱すぎ寂しがりやじゃねーか」と罵倒されることは覚悟して書いているのだが

 

本当に心を許せる拠り所がなくなったor減ってしまったのは、正直寂しい。

 

駿台お茶の水校から一緒に東大へ進学した友達は20人近くいるが、大学で同じクラスの人はおらず、みなそれぞれの世界に飛び込んで、なぜか、なぜかひとり取り残されてしまった気がする。

 

そう、なぜか、である。

 

というのも、大学のクラスで孤立しているわけではないのだ。

 

オリ合宿で深夜までゲームを一緒にして仲良くなった友達が15人近くいて、授業も一緒に受け、五月祭の出し物の会議にも積極的に参加している。

 

しかし、夜になり、授業が終わって帰路につくと、今まで楽しく過ごしていた仲間たちがふと恋しくなる。

 

 

 

 

ここで気持ちを率直に書き残しただけでは、ただのメンヘラブロガーの戯言になってしまう。

 

なぜ僕はこんなメンヘラになってしまっているのか、僕なりに考えついた理由をいくつか述べる。

 

 

 

 

①新しい環境に慣れきっていない

 

先ほど書いたので特に説明はしない。

 

 

 

②大学の友だちと知り合ってまだ日にちが浅い

 

それはそうである。

 

プレオリの日に顔合わせをし一緒にオリ合宿をしたとはいえ、まだ知り合って2週間も経っていない。

 

信頼できる心の拠り所がいないのも、当然の話である。時間が解決してくれるだろう。

 

問題は、ここからである。

 

 

 

③睡眠時間が足りていない

④お腹が空いている

⑤最近運動をしていない

⑥授業で疲れる

 

「は?」と思った人がほとんどだろう。しかしこれはおそらく事実である。

 

まず先ほど「夜になって、帰路につくと」寂しくなると書いたことを思い出してほしい。

 

夜、授業が終わって帰るとき、まさにそのときは疲れており、夕ご飯前でお腹が空いている。疲れと空腹は、基本的にお豆腐メンタルへの最短経路である。

 

 

そして睡眠、運動不足。

 

それについては、Testosterone氏著作の「筋トレが最強のソリューションである」からの次の引用を参考にしてほしい。

 

 

「あれ?俺 / 私、メンがヘラってる?」って思ったら試すべき5つの行動

①8時間睡眠の確保

②週3日の運動(筋トレが至高)

③朝起きたら太陽の光を10分は浴びる

④3食しっかり食べる

⑤だれでもいいので悩みを話す(僕はよくダンベルに話しかけてる)

効果はすべて科学的に証明されています。

 

僕がダンベルに話しかけるかはさておき、この5つはかなり有効性のある主張であると思う。

 

科学的にどうなの?とかは、テストステロンとかセロトニンとかの話を持ち出さなければならず長くなるので割愛するが、たしかに僕は最近6時間近い睡眠時間で大学に通っていたし、浪人時代は朝の日課であった筋トレもサボってほぼしていない。

 

早速今日から改めようかな、と思う。この筋トレ本は読んでてかなりタメになることがたくさん書いてあるので、お時間があればぜひお手にとってほしい。

 

 

 

世界をいくつも持っておく。

仕事の世界、家族や友人との世界、色恋の世界。

延長線上で考えるのではなく、全部切り離して考える。

どれか順調にいっていれば他がダメでも耐えられるし、何より一点集中は気張り過ぎちゃってよくない。気楽にゲームソフトを数本同時進行しちゃう感じぐらいでちょうどいい。

 

友人たちとの世界に一点集中しすぎてメンがヘラっているのだから、他の世界に情熱を注ぎ、その間に自然と友人たちとの世界も上手く行かせるのが得策なのだろうか。

 

見つめる鍋は煮えない。

 

 

 

 

 

 

ちなみに文中の<><><><><>...より前の場所は帰りの電車の中で(病んでるとき)、後ろはご飯を食べて風呂に入ったあとにゆっくりしながら書いた文です。同じ記事なのに、僕の中では熱量が全然ちがいます(もちろん前者が熱い)。読者の皆様にも、一目瞭然でしたでしょうか…

 

 

 

 

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"若者言葉"としての「ヤバい」

 

 

駒場での授業を終えたあと、渋谷駅で京王井の頭線を降りたとき

 

「山手線とか本当にヤバいよね」

 

という言葉を耳にした。

 

折り返しの電車に乗るために僕とすれ違ったJKから発せられたものである。

 

 

 

この言葉だけ聞いて「いやなにがどうヤバいんだろう」と思ってしまった。

 

お前、知らない人の言葉にも食らいつくって好奇心旺盛だな、ということを書きたいのではない。

 

この発言から、我々が使う「ヤバい」という言葉の本質が垣間見える。

 

 

 

 

 

 

ここで、ヤバいという言葉の意味を調べてみると、Weblio辞書には次のように記載されている。

 

 

 [「やば」の形容詞化。もと、盗人・香具師(やし)などの隠語 ]

身に危険が迫るさま。あぶない。「ー・いぞ、逃げろ」

不都合が予想される。「この成績ではー・いな」

若者言葉で、すごい。自身の心情が、ひどく揺さぶられている様子についていう。「この曲、ー・いよ。」

  

 

ちょっと引っかかる "若者言葉" という単語は後に回しておいて「ヤバい」について考察しようと思う。

 

 

 

そもそもヤバいは盗人や香具師(テキ屋のこと)の隠語である「やば」という単語が形容詞化したものだと書いてある。

 

 

ヤバいは悪いことに使うのが正しい …☆

 

という意見はよく耳にするが、たしかに盗人を表す言葉が語源になっているのだから、悪いことに使うのが本来の意味である(テキ屋さんは別に悪い人じゃないと思うので触れません)ことは簡単に分かるだろう。

 

しかし僕も含め(僕の用途は狭いです。後ほど)、若者の大半は「ヤバい」を、次のように必ずしも悪いとは言えない意味でも使う。

 

「ヤバーいこれかわいい〜」

 

 

悪いものに対してかわいいという言葉を使うのは、小悪魔系の女の子にやられたプライド高めの男が「俺もこんなあざとい手に引っかかる凡人だったのか」と悔しがり自分の意志に反しながら相手のことをデレデレに褒めるときくらいで極めて限定されていてほぼ考えなくてよいから

 

上の「ヤバい」は良い意味で使われていると考えることができる。

 

 

 

そもそものヤバいの本質は悪いものを形容する言葉であるが、このように悪くないものにも「ヤバい」という語が使われるようになったいま「ヤバい」という語の本質はどうなってしまったのか。

 

 

僕が考えるにそれは「程度のはなはだしさを表す」である。

 

 

 

程度のはなはだしさ…という言い方をするとどうしても古文単語が頭に浮かんでしまうのが受験勉強病の患者(僕です)であるが

 

古文単語には、程度のはなはだしさを表す単語がいくつかある。

 

その中で、現代語の「ヤバい」にちょっと似たような単語があって、それは「いみじ」である。

 

 

Weblio辞書によれば「いみじ」の意味は

 

①はなはだしい。並々でない。

②よい。すばらしい。

③ひどい。恐ろしい。

 

  

である。

 

良いも悪いも表せる、まさに「ヤバい」のような単語で

 

実は僕が先ほど気づいた「ヤバい」の本質は、冒頭の山手線がヤバい話と、この単語の知識を結びつけて得たものである。

(「ヤバい」のように、悪い意味→良い意味 という順かは不明)

 

 

 

このような本質の変遷があるから、冒頭の「山手線とか本当にヤバいよね」という言葉を一度きいただけでは、何がヤバいのかよく分からないのだ。

 

おそらく、山手線は混み具合がヤバい(悪)というのが意図されている可能性が高いが、もしかしたら彼女らが鉄分多めのJKで、山手線E235の車両(電子レンジ)の姿に興奮して「ヤバい」(良)と言ってるのかもしれない。

 

 

どちらにせよ「ヤバい」がただ単に程度のはなはだしさを表す単語になったから、あの言葉の本当の意味をすぐに汲み取れなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

さて次は、後回しにしていた "若者言葉" について意見を述べさせてもらう。

 

 

そもそも "若者言葉" ってなんなのだろうか。

 

いや意味は分かる。若者しか使わない言葉である。

 

でもそれってなんなのだろうか。どう考えても日本語に精通しててお偉い(笑)学者様が僕ら若者を若干軽蔑して申し上げ始めたにちがいない(わいあーる調べ)。

 

若者しか使わない言葉の出現は、どの言語においても、言葉の使い方の変遷と直接結びついている非常に言語学的に興味深い事例である。

 

そんな事例に大人(笑)は「我々大人が慣れてない言葉を使うんじゃないよ!」と言わんばかりに "若者言葉" といういかにもアホ丸出しな名前を与えてしまった。

 

上に☆とつけさせてもらった主張も、だいたいの場合は僕らより年齢が上の人や、そういう人たちの言うことをどこかの鳥のように何も考えず丸のみにしている人たちがだいたい言っている(わいあーる調べ)。

 

 

 

 

大元に戻れば、そもそも僕らがネイティブとして使う日本語に、正しいまたは間違った日本語なんてあるのだろうか?

 

通じれば全部正しいのではないか?

 

 

 

なぜならば、日本語を使うのは僕らだからである。

 

日本語を使い、紡いでいくのは、紛れもなく僕らである。

 

僕らが紡いでいく日本語を「辞書の意味」とか「文法」とかで自ら制限しているのは、バカバカしいことではないか。

 

僕らが使う日本語が「辞書の意味」になり、僕らの日本語の使い方が「文法」になるのであって

 

「辞書」や「文法書」で最初から僕らの日常の日本語の使い方を制限するのは、単純に順序が逆だと思う。

 

 

 

たしかに辞書は「大半のネイティブが使う日本語」を示す上で重要な役割を果たしており、ネイティブといえど知らないような日本語を参照したり、日本語を外国語として学習する人々の参考として使われたりする。

 

さらに、どの言語でも、かしこまった場面では文法が厳しくなる傾向があるから(これは「正しい」文法が避けられない共通認識になってしまったからに他ならないが)、そういうときのために文法書は活躍する。

 

 

しかし先程も言った通り、僕らの言葉が日本語になるのだから、辞書や文法書にこだわったり自分が聞きなれてない言葉に反発したりして「その言葉づかいは間違っている」と頭ごなしに否定するのは、それこそが間違っていると思う。

 

特に後者のようなことをしてる年上の人間を見ると「いや俺らが悪いって言うけど、裏を返せばお前が無知なんだぞ…」と言ってしまいたくなる(我慢してます)。

 

もちろん、日本語を初めて学ぶときからこんなことを言っていてはキリがないから、初修のときは「正しいと言われている日本語」を教え、マスターしたら自由にするという方が手っ取り早いだろうが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言語の話をするときは、民族的な帰属意識や文化的なちがいが出やすいから、慎重に書かざるを得ず、精神がすり減るのであるが

(だからこの記事には「日本語」という言葉がたくさん出てきますが「日本人」という言葉は出てきません)

 

それでも、以上のことは、考察してみるとけっこう面白いものである。

 

 

 

 

 

 

あっちなみに途中で出てきた僕の「ヤバい」の用途は

「スポーツや勉強や娯楽などで自分より圧倒的に卓越してる人を見て『あいつヤべえな』とつぶやくとき」

ですが、イキそうな女性が「はぁ〜ヤバい」とか言ってるのも、けっこう好きです(わいあーる調べ)。

 

 

 

 

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